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甘い誘惑 -第4回短編小説のつどい-

 

「お邪魔しまーす…」
一歩中に入った途端、そこはまるで別世界だった。

その家の中は、一度だけひやかしで入ったことのあるモデルルームのような匂いがしたし、綺麗に掃除された玄関の先には、真っ白な壁にかこまれた廊下が続いていた。
煙草のヤニで茶色く染まった壁ばかり毎日見ている璃子にとってはそれだけで驚きだった。

ぎこちなく靴を脱いでそこに並べると、泥で汚れたままのスニーカーを履いてきた自分が急に嫌になる。

「ママ〜、璃子ちゃんが来たよ〜!」
そう言いながら家の中に入って行く美香のあとについて廊下を進み、扉を開けた先のリビングへと案内される。
璃子はそこでいったん振り返り、廊下の床を確認した。
自分の足跡だけが黒く汚れて浮かび上がってしまったのではないかと不安になったのだ。
しかしさすがにそんなわけはなく、そこにはしっかりと磨かれた床がピカピカと光っているだけだった。

「璃子ちゃん、いらっしゃい。」
綺麗な洋服に身を包んだ美香の母親が優しい笑みで璃子に声をかける。

「お、お邪魔します。」
璃子はしきりに自分のスカートを指でくしゃくしゃといじりながらぺこぺこと挨拶をした。

「璃子ちゃん、ここ座っていいよ!」
美香が無邪気な笑顔でこれまた真っ白なソファに璃子を誘導する。
璃子は素直にそこに腰掛けるものの、なんだかお尻がむずむずとして落ち着かず、相変わらず自分のスカートをいじりながらきょろきょろと部屋の中を見回した。
白を基調とした室内に、目の前にはガラス製のローテーブルが置かれている。
ふと先ほど鼻水を拭いてしまった自分の洋服の袖が目に入り、とても恥ずかしい気持ちになった。

「オレンジジュースとカルピス、どっちがいいかしら?」
美香の母親がそう言うと、美香は即座に「カルピス!」と元気な声で答える。
「璃子ちゃんは?」と聞かれたので璃子も「じゃ、じゃあわたしもカルピスで!」と答えた。

少しするとグラスに注がれたカルピスが二つと、白い皿にたっぷりと盛られた色とりどりのお菓子が運ばれてきた。
璃子の家では一度もお目にかかったことのないキラキラとした紙に包まれたそのお菓子たちは、まるで宝石のようだった。

「わあい、いただきます!」
美香がその宝石に手を伸ばして紙をむくと、中からチョコレートが出てきた。
そして彼女はそれを珍しがる様子もなくぽんと口に放り投げた。

「璃子ちゃんも、遠慮なく食べてね。」
美香の母親にそう促された璃子は、すぐにでもその宝石たちにがっつきたい気持ちだったけれど、まずは目の前に置かれたカルピスに手を伸ばしちょぴりと一口飲んだ。
甘酸っぱい爽やかな味が口に広がり、思わずそのままグラスを空にしてしまいたい衝動に駆られたけれど、そこはぐっと我慢して、グラスをテーブルへと戻す。
そして遠慮がちに宝石へと手を伸ばした。
キラキラとした紙をむくと、やはり中にはチョコレートが入っていて、璃子はそれをゆっくりと口の中に入れ、噛まずに舌でなめた。
しばらくなめると中からアーモンドが出てきたので、璃子は心の中でガッツポーズをした。

「あ、そーだそーだ。」
美香が口にチョコを入れたまま立ち上がり、ちょっと待っててねと言って廊下の奥の部屋へと消えていった。
ほどなくして戻ってきた彼女の手には、たくさんの消しゴムが抱えられていた。

そう、これこそが今日、璃子が美香の家に招かれることになった理由なのである。

そもそも、璃子と美香はこうして互いの家を行き来するほどの仲良しではない。
あくまで同じクラスの女子、という程度の仲だ。

二人のクラスでは今、女子の間で“消しゴム交換”というのが流行っている。
消しゴムといっても鉛筆で書いた字を消すためのものではない。
動物だとか果物だとかの可愛らしい形の消しゴムをコレクションとして集めるのだ。
そしてそれを互いに見せ合ったり、交換したりして遊ぶのだ。

璃子も例外ではなく、親にねだり倒して買ってもらった数少ないコレクションを大切にしていた。

今日の休み時間も女子数人が集まり、皆自分のコレクションを見せ合ったりして遊んでいた。
中でも一番たくさんのコレクションを持っている美香は、可愛くて明るくて、璃子にとってはひそかに憧れの存在だったのだけれど、いつも輪の中心にいる彼女にこちらから話しかけることはあまりなかった。
しかし美香の方はというと、グループの違う璃子にも「璃子ちゃん、璃子ちゃん」と言って親しげに話しかけることがよくあった。

そのときも、「ねえねえ璃子ちゃん、わたしと消しゴム交換しよ!」と美香は気軽に話しかけてきた。
璃子は自分の頰が赤くなるのを感じながら、「うん、いいよ!」と応じた。

その話の流れのまま、璃子は放課後、美香の家で消しゴムを持ちよって交換会をすることになった。
本当は他の女子たちも誘ってということだったのだけれど、たまたま皆都合が合わず、璃子だけが美香の家に行くことになったのだ。

美香が両手いっぱいに持ってきた色とりどりの消しゴムは、相当な数があった。
璃子も自分のポケットからいくつか消しゴムを取り出すと、「全部持ってくるのは大変だったから、今日はこれだけ。」と小さな嘘をついた。
本当は今手元にあるもので全部なのに。

美香は消しゴムを丁寧に並べると、端から順に「これはねー」と言いながらひとつひとつ説明を始めた。
ピンクのうさぎの形をした消しゴムを手に取ると、「このうさぎちゃんはね、わたしの一番のお気に入りなの。だからこれだけは交換できないんだ〜!」と言って他のものと混ざらないようにテーブルの隅に置いた。

「璃子ちゃんのも見せてー!」
美香が璃子の手元を覗き込むようにしてきたので、璃子も美香の真似をして消しゴムを丁寧に並べ、ひとつひとつ説明をした。

「このペンギンさんのはね、」

「わ〜!このペンギンさん、可愛い〜!」

美香が声をあげる。

「ねえねえ璃子ちゃん、このペンギンさん、わたしのと交換しない?」

「えっ?い、いいよ!」

反射的に言葉を返してしまったけれど、本当は全然よくなかった。
このペンギンの形をした消しゴムは璃子の一番のお気に入りで、これだけは人と交換するつもりはなかったのだ。

「やった〜!じゃあ、ここから好きなの選んでいいよ!どれがいい〜?」

どうしようどうしようと思いながらも、きらきらと目を輝かせる美香の前で璃子はもう後には引けなかった。

「えっとね、これにする。」

璃子は美香の前に並んだ消しゴムの中から、猿がバナナを持ってひょうきんな顔をしているのを手に取った。

「え〜それがいいの!?璃子ちゃん、面白いね!」

あははと笑う美香に、璃子もあははと笑顔を返した。

交換は成立。
ペンギンの消しゴムがなくなるのは寂しいけれど、璃子はこれでいいと思った。
こうして美香と消しゴム交換ができていることの方が大事に思えたのだ。

そのあとも消しゴムを使ってごっこ遊びなどをしていると、時間はあっという間に過ぎた。
「璃子ちゃん、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」という美香の母親の一言で、会はお開きとなった。

「じゃあちょっと、消しゴムを片づけてくるね!」
美香がそう言って消しゴムを抱え、奥の部屋に入っていったので、璃子も自分の分をポケットにしまって帰る準備をした。

「璃子ちゃん、良かったらこのお菓子、少し持って帰らない?」
美香の母親が璃子に声をかける。
璃子が遠慮してあまり手をつけなかったので、皿の上にはまだたくさんお菓子が残っていたのだ。

「えっと、じゃあ、ちょっともらいます。」
そう言って宝石のようなチョコレートたちを消しゴムとは反対側のポケットに入れた。

ふとテーブルの隅っこに目をやると、美香が一番大事にしているはずの、ピンクのうさぎの消しゴムがぽつんと置き去りにされているのが見えた。

「璃子ちゃんバイバイ!また来てね!」
ニコニコと笑いながら手を振る美香に璃子も手を振り返し、くるりと背を向けて家へと歩き出した。

背後でカチャンとドアの閉まる音が聞こえるのと同時に、璃子は全速力で走り出した。
足がもつれて何度も転びそうになったけれど、それでも息の続く限りに走った。
そしていいかげんもうだめだと思ったところでやっと立ち止まり、はあはあと荒くなった息を整えた。
自分の足がわずかに震えていることに気づく。

璃子は自分のポケットに手を入れて中を探った。
先ほどもらったお菓子たちがシャカシャカと音を立てる。

胸が、どきどきする。
どうして自分がこんなことをしてしまったのか、璃子には全くわからなかった。

だけど、“それ”は、確かにそこにあった。

シャカシャカした感触のお菓子に混じって、表面がサラサラと粉っぽいゴムの感触が見つかり、璃子はそれをポケットから取り出した。
美香が一番のお気に入りだと言って見せてくれたときにはキラキラと輝いて見えたピンク色のそれは、璃子の手に握られた今では、その輝きをすっかりなくしてしまっていた。

璃子はそれをもう一度ポケットに戻すと、ぶるりと大きく身震いした。
いつの間にか日はとっぷりと暮れ、璃子の小さな身体は真っ暗な空に飲み込まれてしまう。

たまらずしゃがみこんだ璃子はその小さな胸の中で、大好きな美香の笑顔と、甘い甘いお菓子の味を、繰り返し繰り返し思い出していた。

 


【第4回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

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