このはなブログ

言いたいことは全部ポイズン

リンゴ -【第0回】短編小説の集い-

5

「ああ、そうだ。リンゴ、リンゴがあるのよ。直、持って行かない?」
母はそう言って冷蔵庫にぱたぱたと駆けていき、扉を開けると早くもいくつかのリンゴを取り出して袋に詰めはじめている。
「まだいるって言ってないじゃん。」
直子は母に聞こえぬよう小声でそう呟いたあと、それでも「ありがとう」と言って渡された袋を受け取った。
「悟さんと一緒に食べてね。結構いいやつなのよ、それ。」
母にそう言われ、直子は曖昧に頷いた。
そして手早く帰り支度をすると、「じゃあ、私行くね。」と言って玄関に向かった。
「うん、悟さんによろしくね。」
母がまたもや悟の名前を出したので、直子は「はいはい」と言って手をひらひらと雑に振りながら逃げるように家を出た。

 

帰り道、直子の表情は暗かった。右手に持った袋がずっしりと重く、思わず「はあ」とため息をついた。
自宅に着いてからも、袋に入ったリンゴを見ては陰鬱な気持ちになり、やはり「はあ」とため息が出た。
「こんなにたくさん、食べきれるわけないじゃない。」
直子はもうほとんど絶望的な気持ちで袋の中のリンゴを数えた。
「いち、に、さん、し、ご…」
室内にフワッと甘い香りが漂ったが、直子の気分は晴れなかった。
悟はもう何日もこの家に帰ってきていない。たまに帰ってきたとしても深夜や朝帰りが多く、直子と会話をすることはほとんどなかった。なぜこんなに家に帰らないのかという直子の問に対して、悟はただ「仕事が忙しい」としか答えなかった。そして、直子にその真偽を確かめる術はない。
「どうせ若い女と浮気でもしているんでしょうね。」
ハハッと乾いた笑いを漏らしながら、直子は食べたくもないリンゴの皮を剥いた。
雑に皮を剥かれ、ところどころがでこぼこしたリンゴをこれまた雑に切り分け、そのうちの1かけらを口に入れた。
シャク。右頬をふくらませながら、ゆっくりと一度だけリンゴを噛んだ。甘い汁が口中に流れ出る。口の中にたっぷり溜まったその汁を一気にごくりと飲み込んだあと、直子はしばらくの間その状態のまま固まっていた。
「悟さんなんて大嫌い。」「お母さんも、嫌い。」「みんな嫌い。大嫌い。」
投げやりにそう呟いたあと、再びゆっくりと口を動かしてシャクシャクとリンゴを噛み砕いた。
2〜3かけら食べたところでもう嫌になってしまったので、残りのリンゴは皿に入れ、ラップをかけて冷蔵庫に入れた。

 

4.5

朝、直子が起きてリビングに向かう途中、ガチャっと玄関のドアが開き、悟が入ってきた。
直子はどんな顔をしていいか分からず、「あ、おかえり」とただ素っ気なく言った。言葉とは対照的に、心臓はなぜかばくばくしていた。
悟は直子の顔を見ることもなく、「ただいま」と言いながら、すぐに寝室の戸を開けて入っていった。
直子は、悟が消えていった寝室の戸を数秒間ぼんやりと見つめたあと、「あ、そうだ、リンゴ。ヨーグルトに混ぜて食べよう。」そう言ってキッチンの方に向かった。
昨日食べきれなかったリンゴのかけらたちを包丁で細かく刻み、それをヨーグルトに混ぜて食べた。直子の朝はいつだってヨーグルトだ。
出来上がったリンゴヨーグルトをひとくち口の中に入れると、きゅっとえらの辺りが痛くなったので思わず目をつぶった。
ヨーグルトの酸味の中に、シャキシャキとした歯ごたえと程よい甘み。
「これはうまいわ。」
直子は自分を褒めるようにわざと声に出して言った。
しかし食べている間中、直子の目はヨーグルトを見ていなかった。何を見るわけでもなく、ただただ宙の一点を見つめて、たまにうんうんと頷きながらヨーグルトを食べた。
あと3口程度というあたりまで食べたところで、やはり悟のことが気になって、ヨーグルトを置いて寝室の方へと向かった。
寝室の戸の前に立って耳をすましてみたが、中からは物音ひとつしなかった。
「ねえ」
直子は戸に向かって声をかけてみたが、応答はなかった。
「ねえ!ねえってば!」
少し強めに言うと、中から「何?」と気だるそうに言う悟の声が聞こえた。
「リンゴ、食べない?お母さんから、たくさん貰ったの。甘くて美味しいよ。」
直子は努めて明るい声で言った。
「いらない。」
悟はやはり気だるそうに言った。
「あっそ、わかった。」
直子はそう言ってリビングに戻っていった。
残りのヨーグルトを口の中に流し込んで一気に食べた。それらを飲み込むと、「あー美味しかった」とまたわざと口に出して言った。

 

4

「お会計、432円になります。」
「ありがとうございました。」
直子は愛想のいい笑顔を顔に貼りつけて客を送り出した。
1年ほど前からこのディスカウントショップでバイトをしている。直子はもともと専業主婦であり、悟から毎月もらう生活費で十分に生活はできていたのだが、家にいてもヒマなだけだし、自分で自由に使える金が欲しかったこともあり、働きに出ることにしたのだ。
「働きに出る」と宣言した直子に対し、悟は「ああ」と言うだけだった。
直子にとって、働くことは全く苦ではなかった。言われたとおりにやれば金を貰えるのだ。こんなに簡単なことはない。
言われたとおりのことをそつなくこなす彼女は、上司からの評判もよかった。
「簡単だよ、こんなの。だけど人生は、こんな風にはいかない。」直子は常々そんなこと思っていた。
今日は日曜日だから、客は家族連れが多かった。
「おとーさん!あっち!」
父親の手を引いてはしゃぐ男の子。彼は興奮のためか、ほっぺがリンゴのように真っ赤だった。
「おう、あっち行くか!」少し困り顔をしながらも男の子についていく優しそうな父親。その後ろでは母親が満足そうに微笑んでいる。
「幸せってあんな感じかな」直子はそう思わずにはいられなかった。
直子と悟の結婚生活はわずか半年で崩壊した。なぜ崩壊したのか、直子にはその理由すら分からなかった。
悟と付き合っていたときから、直子はいつだって彼の言うとおりにしてきた。言いたいことがあってもぐっと飲み込み、彼の言うことに従った。そうすればきっと、この人は私を幸せにしてくれる、そう思っていた。
当時から悟は周囲からの評判も良く、直子の友人たちもその交際を羨み、彼女の母にいたっては、「何があっても絶対に離すな」と何度も念を押すほどだった。
背が高く知的な顔立ち、誰にでも優しい性格で、仕事もできた。しかしそんな彼の心の中を、直子は一度だって理解できたことはなかった。いつだって彼は、何を考えているのか全く分からなかったのだ。
昼休み、持参したリンゴのコンポートを食べた。他には何も食べなかった。バイト仲間である春美がそれを見て、「なになに?ダイエット?」と勘ぐってきたので、直子は面倒くさくなって「うん、ちょっとね〜」と適当に答えると、彼女は「直子ちゃん、ぜんぜん太ってないのにぃ」とお決まりのセリフを言いながら持ち場に戻っていった。

 

バイトの帰り道、一匹の猫が路地の隅に座っていた。白地に黒い模様のついた、目つきのするどいやつだ。猫は直子が近づいても逃げなかった。
「お腹、空いてる?」直子が話しかけると、猫は「にゃあ」と答えた。
「キミ、リンゴは食べられるかな?」
今まで“金魚”しか飼ったことのない直子には、果たして猫がリンゴを食べられるのかどうか全く分からなかったが、昼に食べたコンポートの残りを猫に差し出してみた。
猫は興味深そうにリンゴを見つめたあと、くんくんと匂いをかいだものの、そのままプイと顔をそむけて食べようとしなかった。
「キミ、リンゴ、嫌いなんだ。」直子は少し寂しい気持ちでそう言った後、「私もね、嫌いよ、リンゴ。」そう続けた。
「キミは、いいね。自由で。」そんなことも言った。

 

2

幼なじみのチヒロが直子の家に遊びに来た。
「でねぇ、彼ったら、私の誕生日を間違えていたのよ!一日早く祝ってくれちゃって!もう、信じられる?」
チヒロはとても嬉しそうに、最近付き合いだしたという彼の話をしているところだった。彼女の横では、彼女の息子であるツトムが直子の作ったアップルパイを夢中でほうばっている。もう3切れ目だ。
「えー!信じられないね!でもさ、ちゃんと祝ってくれるなんて優しい彼じゃん。」
「うん。私ね、本当に幸せだよ。」
チヒロが心底幸せそうに言ったので、直子は安心した。
チヒロは二年前に離婚し、それ以来女手ひとつでツトムを育ててきた。一時期は本当に疲弊しきっていた彼女のことを、直子は本当に心配していた。
しかし現在では仕事も順調にこなし、生活も安定しているという。ツトムも以前よりだいぶ男らしい顔つきになり、とても頼りになりそうだ。
『他人に消費される人生は嫌だ。』
彼女は離婚をするとき、直子にそんなことを話していた。直子にはその言葉の意味はよく分からなかったが、チヒロが悲しそうな顔をするのは嫌だと思った。
そのときの言葉を今ふと思い出した直子は、チヒロの人生が他人に消費されるものだったのだとしたら、私の人生は、リンゴを消費するだけの人生だなあと自虐的な考えを巡らせていた。

 

「今日はたくさん話を聞いてもらっちゃって、ありがとね!」
チヒロは晴れやかな顔で言った。横ではツトムがおみやげのアップルパイをしっかりと抱えながら、「ありがとね〜」とニヤニヤして言った。
「ううん、こちらこそ、普段こんなに人としゃべる機会ないから楽しかったよ!」直子は素直にそう答えた。
するとチヒロは少し心配そうな顔で、「直も、あんまり我慢したらだめだよ?辛い時は、辛いって言ってもいいんだからね?」と言った。
彼女は直子の家庭の内情を知っているただ一人の人物なのだ。
「うん。大丈夫。ありがとう。」自分に言い聞かせるように直子は言いながら、手を振って親子を見送った。

 

0

「…でね、そしたらお父さん、『それはお前が悪い』とか言うのよ、ひどいと思わない?ねえ?…ちょっと、直、直?」
「え?ああ。そうだね。」
「何よ、全然聞いてないじゃない。」
「…あのね、お母さん。」
「何よ」
「私ね、離婚しようと思うの。」
「はあ?なに言ってんのあんた、本気で言ってるの?あ、分かった、どうせ喧嘩でもしたんでしょう。そんなことでいちいち離婚だ離婚だって騒いでどうすんのよ。」
母は一気にまくし立てた。
「あんなに条件の揃った人なんてそうそういないんだからね?少しくらい嫌だからってそのくらい我慢しなさいよ、あんた、養ってもらってるんでしょ。」
母のあまりの勢いに直子は、「うん、そうだね」と答えることしかできなかった。
悟と別れたところで、その後の人生に何かあてがあるわけではない。もしかしたら野垂れ死ぬ可能性だってある。
彼と離婚することはできない。一生今のような生活をしていくしかないのだ。
「そうそう、こないだのリンゴ、どうだった?美味しかったでしょう。」
私は、一生、変わらない。
「同じところからね、今度はブドウを送ってもらったのよ。」
一生、変われない。
「ねえ、直、持っていく?ブドウ。これ食べて悟さんと仲直りでもしなさいよ。」
一生。ずっと。
「美味しいもの食べたらね、喧嘩する気なんか起きないんだから。ねえ、直、聞いて…」
「いらない。」
「え?」ブドウを袋に詰めようとしていた母の手が止まった。
「私、いらないよ、ブドウ。あまり好きじゃないから。」
「あら?そうだったかしら?残念ねぇ。美味しいのに。」
母は心底残念といった様子でブドウを冷蔵庫に戻した。
「でもねぇ、直。離婚はやめときなよ?」
彼女の目は愛する娘を心配する母親そのものだった。
「うん。離婚は、しない。」
「そう、よかった。」
人の言うとおりにしか動けない自分の生き方を恨む一方で、それがただの“甘え”であることも、直子はよくわかっていた。
今の生活を捨てる勇気が自分にはないこと、それは自分自身が一番よくわかっていることだった。

 

だけど。

 

次に自分が右手に持つものくらいは、自分で決めよう。そう思った。
人からもらったリンゴやブドウではない、自分で選んだ、何か。
それが何かは彼女自身にも分かっていないけれど、ふと心の中に浮かんだその考えが、直子はたいへん気に入ったのだった。

 

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