星になったはずの父が帰ってきたのは、英恵が中学二年生のときだった。
「どうも、あなたの父です。」
屈託のない笑顔で自己紹介をしたその男は、どうやらこの家に居座ろうとしているらしかった。
英恵の母も、突然訪ねてきたその男に最初こそ戸惑っていたものの、少しすると何かの魔法をかけられたようにすぐに打ち解けてしまった。
英恵が物心ついたとき、父はすでに居なかった。
まだ英恵が幼い頃、母に父のことを訪ねてみたことがある。そのとき母は一言「星になった。」と言うだけだった。
その言葉の裏には、「それ以上聞くな」という母からの暗号が隠されているように感じられたので、それ以降、英恵が父について尋ねることはなかった。
それから実に10年近い月日が流れたが、大人にとっての10年というのは英恵にとってのそれとは質が違うものらしく、ケラケラと笑いながら昔話に花を咲かせる父と母を見て英恵はただ呆然としていた。
「他に行くところがないらしいのよ。」
母にそう言われた英恵は、「別にいいけど」と言うしかなかった。
“別にいいけど、わたしは関わりたくない”
英恵はどうやら自分の父であるらしいその男とは目を合わさぬようにして、自分の部屋へと逃げ込んだ。
こうしてその日から英恵たち“家族”の生活が始まることになったのだ。
朝、英恵が歯を磨いていると、「英恵ちゃんおはよう!」と言いながら嫌味なほど爽やかな笑顔を貼り付けた父がこちらに向かってきた。
英恵は目を合わさぬようにしながら軽く会釈だけすると素早く口をゆすぎ、その場からそそくさと退散した。
父は英恵に気に入られようとしているらしく、英恵の顔を見ては、「英恵ちゃん、英恵ちゃん」と言って馴れ馴れしく話しかけた。
英恵はそのたびにやはり父とは目を合わさず、「はあ」とか「そうですね」などと答えるだけだった。
父は実年齢よりもだいぶ若く見えたし、とても整った顔立ちと言えた。
人の心の隙間を的確についてくるような人懐っこい笑みと喋り方は、きっと大人の女性には受けがいいのだろうが、英恵にとってそれはイライラを増幅させるだけであった。
父がいなかったこれまでの約10年間、母の実家からそれなりの援助があったことで生活にそれほどの不便はなかったものの、苦労しなかったといえば嘘になる。大嘘だ。
英恵は母に、いつまであの男を置いておくのかと度々文句を言ったが、「少しの間だけだから、ごめんね」と言われるだけで、押しの弱い母の性格を知っていた英恵はそれ以上追求することができなかった。
なにより、父が帰ってきてからの母は見違えるように明るくなった。
もともと優しくて温和な性格の彼女であったが、少し自分に自信のないようなところがあった。
しかし父と喋るときの母は本当にいきいきしており、とてもよく笑った。
料理が得意な母は、週に一度は父の大好物であるグラタンを作り、「どんな高級料理も紗栄子のグラタンには敵わないなあ〜!」と父に言われるたびに、今にも飛び上がってしまいそうなほど嬉しそうな顔をした。
夕飯を食べ終わるとテレビゲームをするのが父の日課だった。
リビングのソファーに母と並んで座り、ゾンビだとか化け物だとかが出てくるようなものばかりプレイしては母をきゃっきゃと言わせていた。
その日も英恵が学校から帰ると、父はソファーで何やら気持ちの悪い化け物と戦っているところだった。
「あ、英恵ちゃんおかえりー!」
「英恵おかえりなさい。今日もだいぶ遅くまで練習してたのね?」
「うん、試合前だからミーティングが少し長引いちゃって。」
「そうなの、お疲れさま。すぐご飯の準備するわね。」
父と母は先に食事を済ませていたようで(部活がある日は先に食べててと言ってある)、母は英恵の分の食事だけをテーブルに並べた。
英恵が焼き魚をつついている間、父と母はあーでもないこーでもないと言いながらテレビの前でうんうん唸っていた。
どうやら物語の進め方が分からず、昨日から同じところばかりぐるぐるまわっているようだ。
「ここにさ、ヒントがあるのは分かってるんだよ」
「でもどうやって文字を浮かび上がらせるのかしら?」
英恵はその様子を見ながら次第にイライラが募っていくのを感じた。
「俺はここの薬品が怪しいと思ってるんだけどなー!」
画面の中のキャラクターは相変わらず同じところばかりぐるぐるまわっている。
英恵がイライラしていることなど全く気づきもしない父の能天気な様子に、英恵はいよいよ我慢ができなくなった。
「あのー!!」
思ったより大きい声が出たので、父と母はびっくりした様子で英恵の方を見た。
「あ、ごめん英恵ちゃん!そうだよな、食事中にこんな化け物見たくないよな!」
慌ててテレビを消そうとする父を制するように英恵は言った。
「違う!そうじゃなくて!バスタブ!」
「は…?」
「さっきの部屋に血の入ったバスタブありましたよね!?あれに浸せば文字浮かび上がると思いますけど!」
英恵の思わぬ助け舟に父は目を丸くし、生まれたての雛のように口をパクパクさせた。
「あ〜〜〜そうだったか〜〜〜!」
父が天を仰いでそう叫んだあと、英恵の言う通りにキャラクターを動かすと、あっけないほどすんなりと物語が進んだ。
「英恵ちゃん、天才だなあ!」
「英恵すごいすごい!」
口々に英恵を褒める両親の声がむず痒く、英恵は素早くご飯をかき込んだ後、「ごちそうさま」と言ってすぐに自分の部屋に引っ込んだ。
「英恵ちゃん、ありがとう〜〜〜!」
背後で父の調子のいい声が聞こえると、英恵は「ふう」とため息をついた。
それからというもの、父はゲームの攻略について度々英恵を頼るようになった。
「英恵ちゃん、これどうやるか分かる?」「ここが分からないんだよね」「ねえ英恵ちゃん」
英恵は父に呼ばれるたびにうるさそうな顔をしたが、その都度的確なアドバイスを送って彼を喜ばせた。
そのうちに父は複数人でプレイできるようなゲームを買ってきて、英恵に一緒にやろうと言ってきた。
英恵も実は自分もやりたいと思っていたので、渋々という姿勢は崩さずに父の申し出を受けた。
一緒に助け合ってプレイをするものでは父はいつも英恵の足を引っ張り、対戦するものではなかなか英恵に勝てなかった。
「英恵ちゃん、もう一回!もう一回やらせて!」
「あれー?人にものを頼む態度には見えないんですけど?」
勝ち誇ったように言う英恵に「英恵様お願いします〜!」と言って父が頭を下げ、その様子を母がニコニコしながら見つめるというのがこの家でのおなじみの光景となった。
ある日の夕方、今日はどのゲームで父を負かしてやろうかと考えながら英恵が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。
おかしい。鍵は開いているのに。
英恵は急に不安になり、電気をつけないまま忍び足でゆっくりと家の中を進んだ。
すると突如、パンッという破裂音とともに、部屋の中がぱっと明るくなった。
「英恵ちゃん!お誕生日おめでとう〜!」
「英恵、おめでとう〜!」
目の前には、手にクラッカーを持ち頭に三角帽をかぶった父と母が、満面の笑みで立っていた。
驚きのあまりその場で腰を抜かしてしまった英恵は、少しの混乱のあとに急に恥ずかしくなり、「もう!驚かさないでよ!」と怒るふりをするのが精一杯だった。
ごめんごめんとばつが悪そうに謝る両親の後ろには、おそらく母が作ったのであろうご馳走と、ロウソクの立ったホールケーキがあった。
「驚かせちゃってごめんね?ごはん、食べましょう。」
母に促されてやっと起き上がった英恵は、ヘラヘラと笑う父の方を見て唇を尖らせたあと、自分もヘラヘラと笑った。
英恵は両親とともにご馳走を食べながら、こんなに賑やかな誕生日はいつ振りだろうかと考えていた。
幼い頃は母の実家の両親が誕生日に駆けつけてくれていたが、ある程度の年齢になってからは照れくさいからと言って断っていた。
それでも母は誕生日には必ずケーキとプレゼントを用意してくれたが、二人で祝うそれはやはりささやかなものだった。
やめてよと嫌がる英恵をよそに、父と母はバースデーソングを歌い、英恵にロウソクの火を吹きけさせた。
照れを隠すために少しムスッとした顔をする英恵に、父からプレゼントが手渡された。
細長い形をしたその箱の中には、小さな星のチャームがついたシルバーのネックレスが入っていた。
「アキラさんが選んでくれたのよ。」
母がそう言うと父は少し照れたように頭を掻いた。
「今はまだ早いかもしれないけど、英恵ちゃんがもう少し大人になったとき、ぜひ着けてみて。」
英恵はその言葉を聞きながら、自分の心がドキドキするのを感じた。
父と母を交互に見ながら、「ありがとう」と言った。
みんなでケーキを食べ終わってからは、いつものように父と英恵のゲーム大会が始まった。
父も、母も、英恵も、全員が笑っていた。
「英恵ちゃん」
部屋の外から父の声がしたとき、英恵は少しドキッとした。
「な、なんですか」
思わず声がうわずった。
そのとき英恵は誕生日プレゼントに両親からもらったネックレスをつけて鏡の前に立っているところだった。
そうやって鏡の前でポーズをとっては、少しだけ大人になった気分を味わうのが最近の英恵のマイブームなのだ。
「英恵ちゃん、俺とデートしよう。」
「はあ?」
どうやら近くの公園まで散歩に行かないかという誘いらしかった。
「えー、どういう風の吹きまわしですか?」
英恵は父を茶化しながらも、内心はあまり嫌ではない気持ちだったので、「まあいいですけど」と答えた。
少し迷ったあげく、ネックレスを着けたままパーカーの中に隠すようにして部屋を出た。
「やったーやったー!」と大袈裟にはしゃぐ父を無視して英恵は玄関に向かう。
母は今夜も父の大好物であるグラタンを作るらしく、その準備をしながら「気をつけてね」と言って二人を笑顔で見送った。
外に出ると冷たい空気が二人を包んだ。
ゆっくりとした足取りで公園を目指す。
父は英恵の学校での様子などを聞いてきた。
英恵は、自分の所属するバレーボール部でエースとして活躍していること、一週間後に控えた期末テストが憂鬱であることなどを話した。
母には照れくさくて話せないようなことも、父にはペラペラと話すことができた。
サッカー部で一番人気のある男の子に告白されて付き合っているのだという話をすると、父は「そうかそうか」と楽しそうに笑った。
「英恵ちゃんは紗栄子に似て美人だからなあ〜」
英恵が空を見上げると、真っ暗な空にたくさんの星が輝いていた。
英恵の顔は母親似ではない。
きっとそれは誰が見たってそう思うだろう。
公園に着くと、父は突然、「ここでお別れだ」と言った。
訳が分からないといった風に口をあけたまま固まる英恵の、「なんで?」という言葉を封じるように、父は英恵をやさしく見つめた。
父の言う“お別れ”が、“またあした”という類のものでないことは、英恵にも分かった。
今度は、いつまで?
英恵の頭に浮かんだそれは、言葉にはならず、真っ暗な空に吸い込まれていくだけだった。
「ただいま。」
チーズの焼けるいい匂いが漂う家に帰ると、母が「おかえり」と言いながら玄関までかけてきて、英恵一人しかいないのを見ると不安そうな顔で尋ねた。
「アキラさんは…?」
「星になった。」
英恵はそれだけ言うと、泣き崩れる母の姿を見つめながら立ち尽くすことしかできなかった。
【第2回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」
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