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“家族” -【第2回】短編小説の集い-

星になったはずの父が帰ってきたのは、英恵が中学二年生のときだった。

「どうも、あなたの父です。」
屈託のない笑顔で自己紹介をしたその男は、どうやらこの家に居座ろうとしているらしかった。

英恵の母も、突然訪ねてきたその男に最初こそ戸惑っていたものの、少しすると何かの魔法をかけられたようにすぐに打ち解けてしまった。

英恵が物心ついたとき、父はすでに居なかった。
まだ英恵が幼い頃、母に父のことを訪ねてみたことがある。そのとき母は一言「星になった。」と言うだけだった。

その言葉の裏には、「それ以上聞くな」という母からの暗号が隠されているように感じられたので、それ以降、英恵が父について尋ねることはなかった。

それから実に10年近い月日が流れたが、大人にとっての10年というのは英恵にとってのそれとは質が違うものらしく、ケラケラと笑いながら昔話に花を咲かせる父と母を見て英恵はただ呆然としていた。

「他に行くところがないらしいのよ。」

母にそう言われた英恵は、「別にいいけど」と言うしかなかった。

“別にいいけど、わたしは関わりたくない”

英恵はどうやら自分の父であるらしいその男とは目を合わさぬようにして、自分の部屋へと逃げ込んだ。

こうしてその日から英恵たち“家族”の生活が始まることになったのだ。

 

 

朝、英恵が歯を磨いていると、「英恵ちゃんおはよう!」と言いながら嫌味なほど爽やかな笑顔を貼り付けた父がこちらに向かってきた。
英恵は目を合わさぬようにしながら軽く会釈だけすると素早く口をゆすぎ、その場からそそくさと退散した。

父は英恵に気に入られようとしているらしく、英恵の顔を見ては、「英恵ちゃん、英恵ちゃん」と言って馴れ馴れしく話しかけた。
英恵はそのたびにやはり父とは目を合わさず、「はあ」とか「そうですね」などと答えるだけだった。

父は実年齢よりもだいぶ若く見えたし、とても整った顔立ちと言えた。
人の心の隙間を的確についてくるような人懐っこい笑みと喋り方は、きっと大人の女性には受けがいいのだろうが、英恵にとってそれはイライラを増幅させるだけであった。

父がいなかったこれまでの約10年間、母の実家からそれなりの援助があったことで生活にそれほどの不便はなかったものの、苦労しなかったといえば嘘になる。大嘘だ。

英恵は母に、いつまであの男を置いておくのかと度々文句を言ったが、「少しの間だけだから、ごめんね」と言われるだけで、押しの弱い母の性格を知っていた英恵はそれ以上追求することができなかった。

なにより、父が帰ってきてからの母は見違えるように明るくなった。
もともと優しくて温和な性格の彼女であったが、少し自分に自信のないようなところがあった。
しかし父と喋るときの母は本当にいきいきしており、とてもよく笑った。

料理が得意な母は、週に一度は父の大好物であるグラタンを作り、「どんな高級料理も紗栄子のグラタンには敵わないなあ〜!」と父に言われるたびに、今にも飛び上がってしまいそうなほど嬉しそうな顔をした。

夕飯を食べ終わるとテレビゲームをするのが父の日課だった。
リビングのソファーに母と並んで座り、ゾンビだとか化け物だとかが出てくるようなものばかりプレイしては母をきゃっきゃと言わせていた。

その日も英恵が学校から帰ると、父はソファーで何やら気持ちの悪い化け物と戦っているところだった。

「あ、英恵ちゃんおかえりー!」

「英恵おかえりなさい。今日もだいぶ遅くまで練習してたのね?」

「うん、試合前だからミーティングが少し長引いちゃって。」

「そうなの、お疲れさま。すぐご飯の準備するわね。」

父と母は先に食事を済ませていたようで(部活がある日は先に食べててと言ってある)、母は英恵の分の食事だけをテーブルに並べた。

英恵が焼き魚をつついている間、父と母はあーでもないこーでもないと言いながらテレビの前でうんうん唸っていた。
どうやら物語の進め方が分からず、昨日から同じところばかりぐるぐるまわっているようだ。

「ここにさ、ヒントがあるのは分かってるんだよ」

「でもどうやって文字を浮かび上がらせるのかしら?」

英恵はその様子を見ながら次第にイライラが募っていくのを感じた。

「俺はここの薬品が怪しいと思ってるんだけどなー!」

画面の中のキャラクターは相変わらず同じところばかりぐるぐるまわっている。

英恵がイライラしていることなど全く気づきもしない父の能天気な様子に、英恵はいよいよ我慢ができなくなった。

「あのー!!」

思ったより大きい声が出たので、父と母はびっくりした様子で英恵の方を見た。

「あ、ごめん英恵ちゃん!そうだよな、食事中にこんな化け物見たくないよな!」

慌ててテレビを消そうとする父を制するように英恵は言った。

「違う!そうじゃなくて!バスタブ!」

「は…?」

「さっきの部屋に血の入ったバスタブありましたよね!?あれに浸せば文字浮かび上がると思いますけど!」

英恵の思わぬ助け舟に父は目を丸くし、生まれたての雛のように口をパクパクさせた。

「あ〜〜〜そうだったか〜〜〜!」

父が天を仰いでそう叫んだあと、英恵の言う通りにキャラクターを動かすと、あっけないほどすんなりと物語が進んだ。

「英恵ちゃん、天才だなあ!」

「英恵すごいすごい!」

口々に英恵を褒める両親の声がむず痒く、英恵は素早くご飯をかき込んだ後、「ごちそうさま」と言ってすぐに自分の部屋に引っ込んだ。

「英恵ちゃん、ありがとう〜〜〜!」

背後で父の調子のいい声が聞こえると、英恵は「ふう」とため息をついた。

それからというもの、父はゲームの攻略について度々英恵を頼るようになった。

「英恵ちゃん、これどうやるか分かる?」「ここが分からないんだよね」「ねえ英恵ちゃん」

英恵は父に呼ばれるたびにうるさそうな顔をしたが、その都度的確なアドバイスを送って彼を喜ばせた。

そのうちに父は複数人でプレイできるようなゲームを買ってきて、英恵に一緒にやろうと言ってきた。
英恵も実は自分もやりたいと思っていたので、渋々という姿勢は崩さずに父の申し出を受けた。

一緒に助け合ってプレイをするものでは父はいつも英恵の足を引っ張り、対戦するものではなかなか英恵に勝てなかった。

「英恵ちゃん、もう一回!もう一回やらせて!」

「あれー?人にものを頼む態度には見えないんですけど?」

勝ち誇ったように言う英恵に「英恵様お願いします〜!」と言って父が頭を下げ、その様子を母がニコニコしながら見つめるというのがこの家でのおなじみの光景となった。

 

 

ある日の夕方、今日はどのゲームで父を負かしてやろうかと考えながら英恵が帰宅すると、家の中は真っ暗だった。

おかしい。鍵は開いているのに。

英恵は急に不安になり、電気をつけないまま忍び足でゆっくりと家の中を進んだ。

すると突如、パンッという破裂音とともに、部屋の中がぱっと明るくなった。

「英恵ちゃん!お誕生日おめでとう〜!」

「英恵、おめでとう〜!」

目の前には、手にクラッカーを持ち頭に三角帽をかぶった父と母が、満面の笑みで立っていた。

驚きのあまりその場で腰を抜かしてしまった英恵は、少しの混乱のあとに急に恥ずかしくなり、「もう!驚かさないでよ!」と怒るふりをするのが精一杯だった。

ごめんごめんとばつが悪そうに謝る両親の後ろには、おそらく母が作ったのであろうご馳走と、ロウソクの立ったホールケーキがあった。

「驚かせちゃってごめんね?ごはん、食べましょう。」

母に促されてやっと起き上がった英恵は、ヘラヘラと笑う父の方を見て唇を尖らせたあと、自分もヘラヘラと笑った。

英恵は両親とともにご馳走を食べながら、こんなに賑やかな誕生日はいつ振りだろうかと考えていた。

幼い頃は母の実家の両親が誕生日に駆けつけてくれていたが、ある程度の年齢になってからは照れくさいからと言って断っていた。
それでも母は誕生日には必ずケーキとプレゼントを用意してくれたが、二人で祝うそれはやはりささやかなものだった。

やめてよと嫌がる英恵をよそに、父と母はバースデーソングを歌い、英恵にロウソクの火を吹きけさせた。

照れを隠すために少しムスッとした顔をする英恵に、父からプレゼントが手渡された。

細長い形をしたその箱の中には、小さな星のチャームがついたシルバーのネックレスが入っていた。

「アキラさんが選んでくれたのよ。」

母がそう言うと父は少し照れたように頭を掻いた。

「今はまだ早いかもしれないけど、英恵ちゃんがもう少し大人になったとき、ぜひ着けてみて。」

英恵はその言葉を聞きながら、自分の心がドキドキするのを感じた。
父と母を交互に見ながら、「ありがとう」と言った。

みんなでケーキを食べ終わってからは、いつものように父と英恵のゲーム大会が始まった。

父も、母も、英恵も、全員が笑っていた。

 

 

「英恵ちゃん」

部屋の外から父の声がしたとき、英恵は少しドキッとした。

「な、なんですか」

思わず声がうわずった。

そのとき英恵は誕生日プレゼントに両親からもらったネックレスをつけて鏡の前に立っているところだった。
そうやって鏡の前でポーズをとっては、少しだけ大人になった気分を味わうのが最近の英恵のマイブームなのだ。

「英恵ちゃん、俺とデートしよう。」

「はあ?」

どうやら近くの公園まで散歩に行かないかという誘いらしかった。

「えー、どういう風の吹きまわしですか?」

英恵は父を茶化しながらも、内心はあまり嫌ではない気持ちだったので、「まあいいですけど」と答えた。

少し迷ったあげく、ネックレスを着けたままパーカーの中に隠すようにして部屋を出た。

「やったーやったー!」と大袈裟にはしゃぐ父を無視して英恵は玄関に向かう。

母は今夜も父の大好物であるグラタンを作るらしく、その準備をしながら「気をつけてね」と言って二人を笑顔で見送った。

外に出ると冷たい空気が二人を包んだ。
ゆっくりとした足取りで公園を目指す。

父は英恵の学校での様子などを聞いてきた。
英恵は、自分の所属するバレーボール部でエースとして活躍していること、一週間後に控えた期末テストが憂鬱であることなどを話した。

母には照れくさくて話せないようなことも、父にはペラペラと話すことができた。

サッカー部で一番人気のある男の子に告白されて付き合っているのだという話をすると、父は「そうかそうか」と楽しそうに笑った。

「英恵ちゃんは紗栄子に似て美人だからなあ〜」

英恵が空を見上げると、真っ暗な空にたくさんの星が輝いていた。

英恵の顔は母親似ではない。
きっとそれは誰が見たってそう思うだろう。

公園に着くと、父は突然、「ここでお別れだ」と言った。

訳が分からないといった風に口をあけたまま固まる英恵の、「なんで?」という言葉を封じるように、父は英恵をやさしく見つめた。

父の言う“お別れ”が、“またあした”という類のものでないことは、英恵にも分かった。

今度は、いつまで?
英恵の頭に浮かんだそれは、言葉にはならず、真っ暗な空に吸い込まれていくだけだった。

 

 

「ただいま。」

チーズの焼けるいい匂いが漂う家に帰ると、母が「おかえり」と言いながら玄関までかけてきて、英恵一人しかいないのを見ると不安そうな顔で尋ねた。

「アキラさんは…?」

「星になった。」

英恵はそれだけ言うと、泣き崩れる母の姿を見つめながら立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 


【第2回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

参加します!

重なるふたり

そのとき千鶴は思わず、これはもしかして母が喋っているのではないかと錯覚した。
しかしながらそこにいるのは千鶴と、友人である洋介だけであった。
 
 
 
当たり前だ、ここに母がいるわけがない。
 
 
 
そう考えながら右手に持ったジョッキをぐいと傾けた。
 
ぬるくなった液体が、少しの刺激とともにサラサラと喉を通過していく。
 
 
 
「あ、生でいい?」
 
 
 
「うん。」
 
 
 
千鶴のジョッキが空くのを見ると洋介はすぐに店員を呼び、自分の分と千鶴の分の生ビールを追加で注文した。
 
 
 
2人ともかれこれもう6杯ほどのジョッキを空にしているが、洋介がまだまだ帰る気ではない様子を見て千鶴は安堵した。
 
 
 
アルコールによる作用と洋介の心地よい相槌のおかけで、千鶴はいつになく饒舌だった。
 
今は自分の好きな小説家のことを熱く語っているところだ。
 
 
 
しかしながら、先ほどから自分の声に被さって聞こえてくる母の声がいちいち鬱陶しい。
 
酔ってぼやっとした頭の中には、ベラベラと饒舌に喋る母の声と、それを静かに見つめる自分の姿があった。
 
 
 
誰だ。今喋っているのは一体誰なんだ。
 
 
 
千鶴はだんだんと嫌な気分になってきた。
 
 
 
「なんかわたしばっかり喋っちゃってるね。今度は洋介の話しよ!」
 
 
 
そう言われて照れ笑いする洋介に向かって千鶴はいくつかの質問を投げかけながら会話を続けていく。
 
 
 
千鶴が男を判断するときの基準は2つしかない。
 
「アリ」か、「ナシ」か。
 
それだけだ。
 
 
 
そして洋介は前者だ。だからこうして興味を持つふりをして会話するのも苦ではない。
 
 
 
きっと洋介も同じことを思っているのだろうと思う。
 
洋介にとってきっと千鶴は「アリ」なのだ。
 
それ以上でもそれ以下でもない。
 
 
 
「これ飲んだら店を出ない?」
 
 
 
千鶴が提案すると洋介は承諾した。
 
 
 
2人で店の外に出ると空気は思ったよりも冷えていて、思わず「ひゃあ」と声が出るほどだった。
 
 
 
「夜になるとやっぱり寒いね。」
 
 
 
「うん、日が出ているうちはだいぶ暖かいんだけどね。」
 
 
 
2人は当たり前のことを喋りながら互いの様子をうかがった。
 
 
 
「千鶴、このあとどうする?帰る?」
 
 
 
「どっか行きたい、かも。」
 
 
 
「どっかで飲みなおす?カラオケでもいいよ。」
 
 
 
「うーん、もう飲めない、かな。」
 
 
 
そう言って千鶴は洋介の胸に自分の頭をトンと寄りかからせた。
 
洋介の胸から聞こえる鼓動がどんどん速くなっていく。
 
 
 
「じゃあちょっと休もうか。」
 
 
 
「うん。」
 
 
 
洋介は千鶴の手を引いてゆっくりと歩き出した。
 
 
 
「こんなに寒いのに吐く息が白くならないね。」
 
 
 
どうでもいいような話をしながら目的地に向かう。
 
 
 
その間にも千鶴はまるで亡霊のように自分の体にまとわりつく母の姿を感じ、それを振り払うのに必死だった。
 
 
 
洋介に可愛いと褒められた目も、嘘ばかり喋る口も、自分を安売りすることでしか己の価値を見いだせない浅はかさも、もう何から何まで千鶴は母親そっくりであり、千鶴にとってそれは呪いのようなものだった。
 
 
 
しばらく歩いていくと、目の前に安っぽい洋風の建物群が見えてきた。
 
赤く光る「満」をたくさん通り過ぎたあと、やっとのことで巡り合った「空」を2人で同時に指差して笑った。
 
 
 
部屋に入ると千鶴は洋介に七色に光る風呂を茶化しながら勧め、自分はベッドにごろんと横になった。
 
来る途中に買ったミネラルウォーターをちびちびと飲みながら、頭がぼわーっとして気持ちのいい感じがしたので、これでもう安心だ、と思った。
 
何が安心なのか、千鶴自身にもさっぱり分かっていなかったが。
 
 
 
しばらくすると、全身に黒い鎧を身につけた洋介が七色に光る風呂から出てきた。
 
 
 
がしゃんがしゃん。
 
がしゃんがしゃん。
 
 
 
重みのある音を鳴らして近づいてくる鎧のあまりにも場違いで滑稽な様子に、千鶴は困惑の笑みを浮かべた。
 
 
 
「洋介?」
 
 
 
千鶴は中に洋介がいないことを知りながら、それでも彼の名前を呼んだ。
 
 
 
鎧が千鶴の正面まできたとき、ふいにその中から小さな女の子がごろんと飛び出してきた。
 
まるでたった今ジャングルをくぐり抜けてきたかのように、彼女の腕や足にはたくさんの擦り傷が見える。年齢は3歳くらいであろうか。
 
 
 
「誰。なんなの。」
 
 
 
見覚えのある赤いスカートを無視して千鶴がそう呟くと同時に、突如見覚えのない天井が視界に現れた。
 
 
 
混乱したまま少しズキリと痛む頭を起こすと、そこに女の子の姿はなく、ソファで缶ビールを飲む洋介の姿が見えた。
 
 
 
「あ、起きたな。」
 
 
 
洋介は千鶴の顔を見てやれやれといった様子で笑った。
 
どうやら千鶴は眠ってしまっていたようだ。
 
 
 
「すんごいいびきかいてたよ。」
 
 
 
「え!うっそ。うそでしょ!わたしいびきなんてかかないもん!」
 
 
 
洋介がからかうように言うので、千鶴は全力で否定しながら彼のもとへ近づいていった。
 
 
 
「うそじゃないよ、すんごいうるさかったんだから。」
 
 
 
洋介がニヤニヤしたままなおも話を続けようとするので、千鶴はすばやく彼に覆いかぶさり、彼の口を自分の口でふさいだ。
 
 
 
そして洋介が自分を受け入れるのをしっかり確かめたのと同時に、先ほどの女の子の姿がふと頭をよぎり、一瞬だけ顔を上げた。
 
 
 
彼女はなぜ、あんな鎧を着ていたのか。
 
彼女はなぜ、あんなに立派な鎧を着ながらも全身傷だらけだったのか。
 
彼女はなぜ、全然痛くもないような顔をしていたのか。
 
 
 
なぜ彼女は子どもの姿だったのか。
 
 
 
それらの答えを千鶴は知っているはずだったが、どうしたのと言うように洋介の顔が再び千鶴に覆いかぶさると、もうそれっきりいつものように何も感じなかった。
 
 

リンゴ -【第0回】短編小説の集い-

5

「ああ、そうだ。リンゴ、リンゴがあるのよ。直、持って行かない?」
母はそう言って冷蔵庫にぱたぱたと駆けていき、扉を開けると早くもいくつかのリンゴを取り出して袋に詰めはじめている。
「まだいるって言ってないじゃん。」
直子は母に聞こえぬよう小声でそう呟いたあと、それでも「ありがとう」と言って渡された袋を受け取った。
「悟さんと一緒に食べてね。結構いいやつなのよ、それ。」
母にそう言われ、直子は曖昧に頷いた。
そして手早く帰り支度をすると、「じゃあ、私行くね。」と言って玄関に向かった。
「うん、悟さんによろしくね。」
母がまたもや悟の名前を出したので、直子は「はいはい」と言って手をひらひらと雑に振りながら逃げるように家を出た。

 

帰り道、直子の表情は暗かった。右手に持った袋がずっしりと重く、思わず「はあ」とため息をついた。
自宅に着いてからも、袋に入ったリンゴを見ては陰鬱な気持ちになり、やはり「はあ」とため息が出た。
「こんなにたくさん、食べきれるわけないじゃない。」
直子はもうほとんど絶望的な気持ちで袋の中のリンゴを数えた。
「いち、に、さん、し、ご…」
室内にフワッと甘い香りが漂ったが、直子の気分は晴れなかった。
悟はもう何日もこの家に帰ってきていない。たまに帰ってきたとしても深夜や朝帰りが多く、直子と会話をすることはほとんどなかった。なぜこんなに家に帰らないのかという直子の問に対して、悟はただ「仕事が忙しい」としか答えなかった。そして、直子にその真偽を確かめる術はない。
「どうせ若い女と浮気でもしているんでしょうね。」
ハハッと乾いた笑いを漏らしながら、直子は食べたくもないリンゴの皮を剥いた。
雑に皮を剥かれ、ところどころがでこぼこしたリンゴをこれまた雑に切り分け、そのうちの1かけらを口に入れた。
シャク。右頬をふくらませながら、ゆっくりと一度だけリンゴを噛んだ。甘い汁が口中に流れ出る。口の中にたっぷり溜まったその汁を一気にごくりと飲み込んだあと、直子はしばらくの間その状態のまま固まっていた。
「悟さんなんて大嫌い。」「お母さんも、嫌い。」「みんな嫌い。大嫌い。」
投げやりにそう呟いたあと、再びゆっくりと口を動かしてシャクシャクとリンゴを噛み砕いた。
2〜3かけら食べたところでもう嫌になってしまったので、残りのリンゴは皿に入れ、ラップをかけて冷蔵庫に入れた。

 

4.5

朝、直子が起きてリビングに向かう途中、ガチャっと玄関のドアが開き、悟が入ってきた。
直子はどんな顔をしていいか分からず、「あ、おかえり」とただ素っ気なく言った。言葉とは対照的に、心臓はなぜかばくばくしていた。
悟は直子の顔を見ることもなく、「ただいま」と言いながら、すぐに寝室の戸を開けて入っていった。
直子は、悟が消えていった寝室の戸を数秒間ぼんやりと見つめたあと、「あ、そうだ、リンゴ。ヨーグルトに混ぜて食べよう。」そう言ってキッチンの方に向かった。
昨日食べきれなかったリンゴのかけらたちを包丁で細かく刻み、それをヨーグルトに混ぜて食べた。直子の朝はいつだってヨーグルトだ。
出来上がったリンゴヨーグルトをひとくち口の中に入れると、きゅっとえらの辺りが痛くなったので思わず目をつぶった。
ヨーグルトの酸味の中に、シャキシャキとした歯ごたえと程よい甘み。
「これはうまいわ。」
直子は自分を褒めるようにわざと声に出して言った。
しかし食べている間中、直子の目はヨーグルトを見ていなかった。何を見るわけでもなく、ただただ宙の一点を見つめて、たまにうんうんと頷きながらヨーグルトを食べた。
あと3口程度というあたりまで食べたところで、やはり悟のことが気になって、ヨーグルトを置いて寝室の方へと向かった。
寝室の戸の前に立って耳をすましてみたが、中からは物音ひとつしなかった。
「ねえ」
直子は戸に向かって声をかけてみたが、応答はなかった。
「ねえ!ねえってば!」
少し強めに言うと、中から「何?」と気だるそうに言う悟の声が聞こえた。
「リンゴ、食べない?お母さんから、たくさん貰ったの。甘くて美味しいよ。」
直子は努めて明るい声で言った。
「いらない。」
悟はやはり気だるそうに言った。
「あっそ、わかった。」
直子はそう言ってリビングに戻っていった。
残りのヨーグルトを口の中に流し込んで一気に食べた。それらを飲み込むと、「あー美味しかった」とまたわざと口に出して言った。

 

4

「お会計、432円になります。」
「ありがとうございました。」
直子は愛想のいい笑顔を顔に貼りつけて客を送り出した。
1年ほど前からこのディスカウントショップでバイトをしている。直子はもともと専業主婦であり、悟から毎月もらう生活費で十分に生活はできていたのだが、家にいてもヒマなだけだし、自分で自由に使える金が欲しかったこともあり、働きに出ることにしたのだ。
「働きに出る」と宣言した直子に対し、悟は「ああ」と言うだけだった。
直子にとって、働くことは全く苦ではなかった。言われたとおりにやれば金を貰えるのだ。こんなに簡単なことはない。
言われたとおりのことをそつなくこなす彼女は、上司からの評判もよかった。
「簡単だよ、こんなの。だけど人生は、こんな風にはいかない。」直子は常々そんなこと思っていた。
今日は日曜日だから、客は家族連れが多かった。
「おとーさん!あっち!」
父親の手を引いてはしゃぐ男の子。彼は興奮のためか、ほっぺがリンゴのように真っ赤だった。
「おう、あっち行くか!」少し困り顔をしながらも男の子についていく優しそうな父親。その後ろでは母親が満足そうに微笑んでいる。
「幸せってあんな感じかな」直子はそう思わずにはいられなかった。
直子と悟の結婚生活はわずか半年で崩壊した。なぜ崩壊したのか、直子にはその理由すら分からなかった。
悟と付き合っていたときから、直子はいつだって彼の言うとおりにしてきた。言いたいことがあってもぐっと飲み込み、彼の言うことに従った。そうすればきっと、この人は私を幸せにしてくれる、そう思っていた。
当時から悟は周囲からの評判も良く、直子の友人たちもその交際を羨み、彼女の母にいたっては、「何があっても絶対に離すな」と何度も念を押すほどだった。
背が高く知的な顔立ち、誰にでも優しい性格で、仕事もできた。しかしそんな彼の心の中を、直子は一度だって理解できたことはなかった。いつだって彼は、何を考えているのか全く分からなかったのだ。
昼休み、持参したリンゴのコンポートを食べた。他には何も食べなかった。バイト仲間である春美がそれを見て、「なになに?ダイエット?」と勘ぐってきたので、直子は面倒くさくなって「うん、ちょっとね〜」と適当に答えると、彼女は「直子ちゃん、ぜんぜん太ってないのにぃ」とお決まりのセリフを言いながら持ち場に戻っていった。

 

バイトの帰り道、一匹の猫が路地の隅に座っていた。白地に黒い模様のついた、目つきのするどいやつだ。猫は直子が近づいても逃げなかった。
「お腹、空いてる?」直子が話しかけると、猫は「にゃあ」と答えた。
「キミ、リンゴは食べられるかな?」
今まで“金魚”しか飼ったことのない直子には、果たして猫がリンゴを食べられるのかどうか全く分からなかったが、昼に食べたコンポートの残りを猫に差し出してみた。
猫は興味深そうにリンゴを見つめたあと、くんくんと匂いをかいだものの、そのままプイと顔をそむけて食べようとしなかった。
「キミ、リンゴ、嫌いなんだ。」直子は少し寂しい気持ちでそう言った後、「私もね、嫌いよ、リンゴ。」そう続けた。
「キミは、いいね。自由で。」そんなことも言った。

 

2

幼なじみのチヒロが直子の家に遊びに来た。
「でねぇ、彼ったら、私の誕生日を間違えていたのよ!一日早く祝ってくれちゃって!もう、信じられる?」
チヒロはとても嬉しそうに、最近付き合いだしたという彼の話をしているところだった。彼女の横では、彼女の息子であるツトムが直子の作ったアップルパイを夢中でほうばっている。もう3切れ目だ。
「えー!信じられないね!でもさ、ちゃんと祝ってくれるなんて優しい彼じゃん。」
「うん。私ね、本当に幸せだよ。」
チヒロが心底幸せそうに言ったので、直子は安心した。
チヒロは二年前に離婚し、それ以来女手ひとつでツトムを育ててきた。一時期は本当に疲弊しきっていた彼女のことを、直子は本当に心配していた。
しかし現在では仕事も順調にこなし、生活も安定しているという。ツトムも以前よりだいぶ男らしい顔つきになり、とても頼りになりそうだ。
『他人に消費される人生は嫌だ。』
彼女は離婚をするとき、直子にそんなことを話していた。直子にはその言葉の意味はよく分からなかったが、チヒロが悲しそうな顔をするのは嫌だと思った。
そのときの言葉を今ふと思い出した直子は、チヒロの人生が他人に消費されるものだったのだとしたら、私の人生は、リンゴを消費するだけの人生だなあと自虐的な考えを巡らせていた。

 

「今日はたくさん話を聞いてもらっちゃって、ありがとね!」
チヒロは晴れやかな顔で言った。横ではツトムがおみやげのアップルパイをしっかりと抱えながら、「ありがとね〜」とニヤニヤして言った。
「ううん、こちらこそ、普段こんなに人としゃべる機会ないから楽しかったよ!」直子は素直にそう答えた。
するとチヒロは少し心配そうな顔で、「直も、あんまり我慢したらだめだよ?辛い時は、辛いって言ってもいいんだからね?」と言った。
彼女は直子の家庭の内情を知っているただ一人の人物なのだ。
「うん。大丈夫。ありがとう。」自分に言い聞かせるように直子は言いながら、手を振って親子を見送った。

 

0

「…でね、そしたらお父さん、『それはお前が悪い』とか言うのよ、ひどいと思わない?ねえ?…ちょっと、直、直?」
「え?ああ。そうだね。」
「何よ、全然聞いてないじゃない。」
「…あのね、お母さん。」
「何よ」
「私ね、離婚しようと思うの。」
「はあ?なに言ってんのあんた、本気で言ってるの?あ、分かった、どうせ喧嘩でもしたんでしょう。そんなことでいちいち離婚だ離婚だって騒いでどうすんのよ。」
母は一気にまくし立てた。
「あんなに条件の揃った人なんてそうそういないんだからね?少しくらい嫌だからってそのくらい我慢しなさいよ、あんた、養ってもらってるんでしょ。」
母のあまりの勢いに直子は、「うん、そうだね」と答えることしかできなかった。
悟と別れたところで、その後の人生に何かあてがあるわけではない。もしかしたら野垂れ死ぬ可能性だってある。
彼と離婚することはできない。一生今のような生活をしていくしかないのだ。
「そうそう、こないだのリンゴ、どうだった?美味しかったでしょう。」
私は、一生、変わらない。
「同じところからね、今度はブドウを送ってもらったのよ。」
一生、変われない。
「ねえ、直、持っていく?ブドウ。これ食べて悟さんと仲直りでもしなさいよ。」
一生。ずっと。
「美味しいもの食べたらね、喧嘩する気なんか起きないんだから。ねえ、直、聞いて…」
「いらない。」
「え?」ブドウを袋に詰めようとしていた母の手が止まった。
「私、いらないよ、ブドウ。あまり好きじゃないから。」
「あら?そうだったかしら?残念ねぇ。美味しいのに。」
母は心底残念といった様子でブドウを冷蔵庫に戻した。
「でもねぇ、直。離婚はやめときなよ?」
彼女の目は愛する娘を心配する母親そのものだった。
「うん。離婚は、しない。」
「そう、よかった。」
人の言うとおりにしか動けない自分の生き方を恨む一方で、それがただの“甘え”であることも、直子はよくわかっていた。
今の生活を捨てる勇気が自分にはないこと、それは自分自身が一番よくわかっていることだった。

 

だけど。

 

次に自分が右手に持つものくらいは、自分で決めよう。そう思った。
人からもらったリンゴやブドウではない、自分で選んだ、何か。
それが何かは彼女自身にも分かっていないけれど、ふと心の中に浮かんだその考えが、直子はたいへん気に入ったのだった。

 

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